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新藤ぶきちさんの
パフォーマンス







新藤 ぶきち さんの パフォーマンス
文 ことのは 宇田川 靖二

1)
詩人はあらゆる場所と時間をつらぬいている。
そのような意味で、私達は「普遍的な人間」というものを探している。

「普遍的な人間」とは、どんな姿をしているのであろうか?

「大王」の面影であろうか?
大統領であろうか?
歴史上の「偉人」であろうか?
肖像画に見られる芸術家であろうか?
聖人などをはじめとする宗教家や大きな体系を考え出した思想家・哲学者であろうか?
あるいは、過ぎにし、吟遊の人々であろうか?

「普遍的な人間」とは、一体どういう世界に住んでいるのだろうか?

「普遍性を宿した人」を探そうとすると、人は、往々にして図書館へ通ったり、美術館を訪れたりする。

しかし、それだけではなく、むしろ往来へ出ようとする人が存在する。

彼は、「普遍性」とは「大道(だいどう)」に棲んでいる、と思うのである。
少なくとも、「大道」に出なければ、「普遍性」に出会うことはできない、と考えるのだ。

新藤ぶきちさんのパフォーマンスは、私にとってそんなイメージに重なるものだ。

「大道」とは、「近所の大道」であり、「ただの大道」である。
「おじさん」という者に向けて、私達はしばしば同様の言い方をしている。
「近所のおじさん」、「ただのおじさん」という言い方である。

*その「おじさん」が、まだ小さい頃には、「近所の、ただの素朴な子ども」であった。
彼は、将来獲得した豊富な知識を土台にして、入り組んだ関係世界を、分析し、作り直し、そして歴史的な事業や仕事に実績を残すであろう。
「ただの素朴な子ども」はそのような可能性をもっていた。
勿論、それは、広島・長崎、その他の上空で原子核爆発を起こしてしまう可能性でもある。

宇宙のビッグバン時代から、百数十億年後の今日にいたり、すべての子ども達は、奇跡を累積した結果、人権思想というようなものをすでに手にしている。 
その意味で、恐らく、子ども達は「詩の根拠を宿している」と言い得る。

2)
新藤ぶきちさんが、当「ギャラリーことのは」を二度目に訪れたのは、今年3月であった。
彼は「書家」なのだが、「大道芸」を標榜して、「平面プロレス」というパフォーマンスを行っている変わった人である。
宣伝用のチラシを一目見れば、その怪しげな可笑しみが、すぐに伝わってくる。
プロレスラーの姿で、座敷箒(ざしきぼうき)を相手にプロレスをする。
一度、八王子の商店街の簡易ステージで観たことがある。
表現者側のエネルギーが迫って来る。
そこに、スポーツや落語漫才等のような開放感が広がった空間ができる。

3)
世の中のすべての人は、まず「近所のおじさん」や「ただのおじさん」なのだ、と、私は或る知人に語ったことがある。

「TVやラジオで、どんな立場の人が出てきても、
眼の前に見えているのは、ただのおじさんや、ただのおばさんだ、だから、お経のように、いつも口でそう唱えるようにして見ていなければならない。
このことは意外に難しいことだから、ひたすら繰り返して習慣づけなければできないことだ・・・」

勿論、そうした「近所のおじさん」「ただのおばさん」に対して、どこかに敬服が温存されているというような内容の話でもある。

何日か経って、その知人に会った時、彼は語った。
「いつも、ただのおじさん、と言いながらTVを見ていると、ホントにそう見えてくるものだ・・・」

ナチスの、ニュールンベルグ裁判で、ホロコーストの責任者アイヒマンが、「予想外に人の良さそうな、ただのおじさんだった」ことに驚かされた、という話を聞くことがある。
一応わかる話なのだが、例の私の知人にとっては、「予想外に・・・」ということにはならないであろう。

4)
TVやラジオで、いろいろな「立場」の人が出てくる。
しかし、皆「ただのおじさん」達のはずだ。
その「ただのおじさん」達の映像ににじみ出てくる「ただのおじさん」にはとても見えない別な要素、
それは、第一に、「立場」達なのだが、その「立場」達とは一体何ものであろうか?
「ただのおじさん」を「ただのおじさん」に観えなくさせているもの、すなわち「立場」とは何ものであろうか?

「立場」とは、私達、個々人の意志がつくる組織性(の一部)であることは察しがついている話であろう。
それは、意志関係という「関係存在」を基本的なあり方としている。
首相の「立場」、
知事の「立場」、
会長の「立場」・・・。

すべての人が、様々な「立場」(組織性)をいくつも背負っていると言ってよい。
人は誰でも「立場(組織)の人」であり、「立場(組織)との統一者」である。

そうであれば、 「立場(組織)」と「個人」とは、どちらが主体者なのだろうか? が問題になる。

「個人」が意志して、行動するのか?
「立場」(組織)が意志して行動させるのか?

この時「立場(組織)が意志して」という表現を、素通りすることはできない。

ここには、二つの問題が横たわっている。
①一つは、「立場」は非実体である。
個人の身体は実体であるが、そういう実体ではない非実体=「立場」という存在が「意志する」、あるいは、「立場」という存在が意志して行動させる、ということは一体どういうことなのだろうか?
②もう一つ。
「立場」が、「個人」に対して、「立場」の身代わりとして発言させることができれば、それは「立場」による「個人・個性の簒奪(さんだつ)」だと言わなければならない。
この仕組みは、個が、「立場」によって立つものである、ということの裏側に常に存在している。

様々な個性簒奪の事例が浮かびあがる。
イ、権力を振りかざしても、振りかざすことがなくても、「個の簒奪(さんだつ)」は実現する。
 国民栄誉賞をあたえ、授与しても「個の簒奪(さんだつ)」になる。
 個人よりも、組織上の「立場」を人は想い描くからである。
ロ、「行政権力の長に立ちたい」、「首相のポストに座りたい」という、
 「個人」の側からの願望によっても、「個の簒奪」(=自個の簒奪)は実現する。
ハ、人によっては「自分は、生涯一下級吏員に徹しよう」という素朴な美学を持っていることがある。
 このような場合も「立場」(組織)による「個の簒奪」は実現する。
二、私達は、小さい頃から、何と多くの儀式(=簒奪者)に立ち会ったことか。
ホ、「ただのおじさん」もアイヒマンのように簒奪されてゆく。

私達個人は皆「立場」との統一者であり、逆に「立場」は個との統一者であるのだが、以上の事例は「立場という主体」の方が、常に個を取り込もうと欲している、という観点から考えられた。
「立場」(という非実体)が個(という実体)の上に体現するのだ、という言い方もできるであろう。

個は内側からの事情をかかえ、「立場」という外側からの事情をもかかえている。
おおまかに言えば、その統一(調整の結果)の意志が、日々の私達の意志である。
かくして、涸れることのない池の水が反射するかのように、難しい仕組みが見えてくる。
問題の本当の困難さは簒奪者(=「立場」)の形成に、自分という個がある参加の仕方をしている、
そして、それが先ずは避けられそうもないように見えてくる、という所にある。

だから、私達は、結局日常的な、普通の問に還ることになるであろう。
私は、あるいは私達は何者だろうか?
個としての私達は、「立場」に依拠しながら、「立場」に簒奪されるという危うい事態に直面している時々刻々を生きている。

では、私達が様々な「立場」という存在によって立つ者だということは承知した!。 
その上で、「立場」ではなく、「普遍的な場所」で、その人個人や、その個性に交わろうとしたら、例えば、「立場」が消えた「ただの大道」の風景が、見えてくるのかも知れない。
先ずは、「ただの大道」にとどまろうとすること、そのことにこだわりつつ、「いつもそこから始めよう」ということになるのだろうか。

5)
上述①の、「立場」とは、非実体である。・・・について。
このような問題にさらに答えるとすれば、「立場」は、「組織性」ということである。
さらに、「組織性」の最少単位は何か? という問い方で答を求めれば、世界は「実体」と「関係」でできており、「組織性」とは、その「関係」のことである。
(「実体」は「実体」として存在し、「関係」は「関係」として存在している。)
世界は、この「関係」を目的的に集積して、「機能的な」世界を様々なレベルに作り上げているのだから、「立場」とは「機能的な組織」の一部を指している。
「立場」とはそのような「関係存在」であると言い得る。
ここでは、その「関係存在」が「意志する」という話なのである。
イメージしやすい例をあげると、「国家意志」、「団体の意志」という「関係存在」がある。
このような場合では、「国家意志」(関係存在)が「渡辺(わたなべ)さん」の上に乗り移って意志するのである。
この時すでに、私達は国家意志の形成に参加している。
そして、私達は「渡辺首相」という現象と対峙している。
渡辺さんは勿論「ただのおじさん」である。

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