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工藤孝生さんの絵





若い夫婦

工藤 孝生さんの絵 ~「体現」を中間色にて表現する~
文 ことのは 宇田川 靖二

● 希薄な画像
描き始めること、それができさえすれば、  
画面から早く立ち去ろうとでもしているかのように、素早い筆づかいに、躊躇というものはないのだろうと思えた。

使用している絵具は、オイルの量が多く混ぜられていて、希薄な塗布による画像になっている。

作家は、体験ということから生じる、「記憶」を描いているように思われる。

その「記憶」は、忘れたい、と思っても忘れることができない、そういう「記憶」である。

すでに半世紀以上前、大戦に敗北した日本の人々が、朝鮮半島から引きあげてきた。
その引きあげの体験を、「ひとびとことがら」というタイトルで、長い間描き続けている。

こういう種類の「記憶」は、執拗に人に棲みついて、当人が消そうと思っても、決して消えてはくれない。
それほど、存在感が強く刻みこまれてしまう。

まさに、作家自身の「記憶」の世界総体を相手にしているのである。

これらの絵は、鈍くどこか重さが漂っており、日向を避けているような色彩だと形容したくなる。
だから、戦後の1946年生まれである私にとっては、こういう絵の前に立つ時、ある構えが必要になる。
歴史に向き合おうとする時のような、ある態度を整える時間が必要になってくるのだ。

しかし、「記憶の世界」は、脳裡における世界である。
それは、頭の外に実在している風景のように、頑固な「実体」の存在感を、そもそもは決して感じさせる世界ではない。
それは、いわゆる自然法則に従っているわけではないのだ。
だから、この作品らの希薄な塗布が、「記憶の世界」の「非実体」的希薄さに、どこかよく符合するものになっている。

従って、この記憶の存在感と画像の塗布の希薄さについて、以下のように言うことができると思われる。

①この絵の画像の塗布の希薄さは、「記憶の世界自体」を目掛けているという理由からやってくる。
②そして、画像の執拗な存在感は、その「体験」の世界からやってきている。

この①②の二つは、それぞれ異なった意味で、長年私には気になっていたことである。

● 「関係」が「実体」上に体現する時、中間的な明度で表現され得る。

以下に、 ①「記憶の世界自体」に関する希薄さについて、問題にしてみたいと思う。

事物が、「実体」と「関係」の統一だと考えられる時、(図1←事物全体を観た時)



キャンバスのような視覚の対象としては、「実体」を「黒」、「関係」を「透明」になぞらえることができる。(図2←事物を部分的な一側面から観た場合)

例えば、歯車が回転している。
歯車は「実体」である。
そして、回転は「関係」である。
従って、目の前の、回転している歯車は、「実体と関係の統一」という現象である。
あるいは、回転が歯車という具体物(=実体)をとおして、体現している、と言ってもよい。
それは図2のBのように、中間的な明度で表すことができる。
Cは「実体」(歯車)であり、Aは「関係」(回転)であると説明されてよい。
「実体」だけ問題にすれば、C「黒」であり、
「関係」だけ問題にすれば、A「透明」である、と言い得るからである。

「関係」というのは、視覚(知覚)では捉えられないから、A「透明」で比喩したのである。
逆に、「関係」を全く考慮に入れなければ、「実体」はC「黒」で比喩され得よう。

あらゆる存在が「実体と関係」でできているのであれば、あらゆる存在はB中間的な明度で表すことができるであろう。

「存在の密度」といった状態のことが問題なのではない。
すべての存在は「実体と関係」の組成であるという意味では同じであるし、私達は、「関係的実体」=「実体的関係」という、精確に言えば、「関係が体現している実体」という、ただ一個の存在(図1)を相手にしているだけである。

勿論、おぼろげな記憶というような意味での「希薄さ」の話とは関係がないし、あの人は影が薄い、といった類の話とも関係がない。

● 執行部(=関係存在)が体現している組織の実体部分と、観念(=関係存在)が体現している脳細胞群、それらが希薄な塗布と符合する。

先ずは、世界は「実体と関係の組成」である、と言い得る。
国家権力(国家意志)も、人の意志(観念)も、その内部における「記憶」の世界も、
その構造としては同じであり、「実体と関係」の二概念で説明できる構造なのだと言い得る位相がある。

イ、嘗て、総理大臣というポスト、即ち「関係存在」が、「田中」という人物の上に体現していた。(→田中総理大臣)

ここには、「歯車とその回転」の例と同じことだ、と言い得る「実体と関係」の組成構造が存在している。
だから、今は亡き「田中総理大臣」の肖像を描くとすれば、この話の流れから譬えれば、図上、B中間の明度で表現するのが似つかわしく思われてくる。
亡くなった存在であるからというのではなく、総理大臣職というポストは「関係存在」であるから、比喩としては透明性を包含する必然性があるからである。

ロ、国家・総理大臣のレベルと、私達の身体(生体)レベルとを並べてみよう。
国家と生体は、ともに「組織性・機能性」という建築物だと考えられるから、「実体と関係の組成」であるということは、両者をつらぬいている。
その、私達の生体がつくる執行部という「関係存在(=自己)」は、脳細胞の何処かにおいて体現している。

「実体」である体細胞群が(国民達のように作用し合って)作りあげている「執行部(=自己)」は、即ち「関係」という存在は、いわゆる「観念・精神・心」とか、「意志」や「自己」や「主体」という世界のことだと言い得る。

「関係」、即ち「(媒介的に)実体に体現して」知覚されはするのだが、直接的には知覚できない世界として、図上の「透明」な領域にからんでいる。
従って「記憶=観念」は、図上の「透明」な領域を含む体現した世界として、比喩的に表現されてよいことになるであろう。
だから、次のように言い得る。
「田中総理大臣」はまた、「記憶」という「関係存在の世界」内部において出現している姿でもあるのだから、比喩として、図2の透明性を含む理由をもっている。

工藤孝生さんの絵の、画像の希薄な塗布は、体質のようなものからやってきている、というような話を避けることにした。
そして、別な角度から希薄な塗布の理由を精確に整理してみると、以上のようになる。

「関係存在」が、「実体」に体現する。
そのことが絵の具の世界に反映する。
そのように、記憶は、希薄な塗布(=中間的な明度)という現象と符合することになる。
そこに、私は興味を持ったのである。

* 同時に陶芸作家でもある。陶作品は油彩画家を彷彿とさせるが、そのイメージは、絵画作品とは異なって、濃くクリヤーである。(下写真)

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