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森田義男さんの絵






森田義男さんの絵 ~近代から現代を唄う~
文 ことのは 宇田川 靖二

その絵を観ることによって、背後にある「美の時代」というものが観えるような気がする、そんな作家がいるものだ。
一枚の絵を選んで、その前に立って、「造形」というリズムを感じながら、様々なイメージ展開を体験して、私達は自由な視界に放たれる。
歌い抜けてゆくかのようだ。
歌は歌うこと以外に何ものも不要である。

森田義男さんの絵の場合、その「美の時代」とは何かというと、先ずは「近代絵画」ということであろう。
「現代」へはそこから繋がるほかはないものだ。

好きな街を歩いて、それを自分の街に変えてゆく。
この時、「絵描き」は「近代絵画」の世界に跳躍する。

歴史上に、「近代絵画」は必然的に訪れるものだ。
この「近代絵画」の必然性を語る時、キーワードは「抽象(化)」であり、「抽象」の道程をイメージ化してみるのがよい。
この抽象の内側には、「論理の必然性」が、「運命の必然性」のように宿っている。

眼の前に森田さんの絵がある。
実はその絵の背後に、中心線や水平線をはじめ、形を形成している無数といえるほどの線・点・面が見える。
一本の線が揺れれば、波のように他の線と会話する。
それらは有機性をもってゆるがない。
その或る線が、左方の奥行きに緩やかなカーブを作ろうとするのは、左方からの光を意識した心が歌おうとするからだ。
その時すでに、視線はキャンバスの全域に及んで、線どおしの牽引と交歓がはじまっている。
線の調子はまだ決定されていない・・・。
眺め続ければ、キャンバスの背後の遠方に、確かな水平線が浮かび上がる。
観ている私の足もとに、大地すら感じることができる。
このような作画の時間が可能なのは、歌おうとする際に、すでに「造形力」が充分血や肉になっているからだ。

「近代絵画」の世界は、眼に見えるあらゆるものの形を「抽象化」して、その究極の見え方が「球・立方体・円筒・円錐・角錐」という「五つの形状」につきる、と解釈された世界である。
そこに、取りあえず不都合は見られない。
「抽象化のソフトを持つ者」(=画家)達は、「抽象能力をめぐらせて、見える世界というものをどのように作り変えてもよいのだ」という、「造形の自由」という地点にやってきた。
歌う自由が解き放たれたのだ。
画家達はこの「抽象化」のソフトを駆使して、「自分の意志」によって絵画作品をアウトプットするようになった。
ここから、この近代絵画の性格は、作家達を、様々な個性を発揮することができるような開放感のもとに押し出した。
そして百花のごとく広がった。
百花は「造形」の自在を謳歌するにいたった。

この状況は、あたかも、「近代社会」について語られているかのようだ。
その理由は、「抽象(化)」というものの道程が、「近代絵画」にも「近代社会」にも、共通の運命をもたらすからというところにある。
「近代社会」もまた、「近代絵画」の「抽象(化)」に呼応しているかのように、たくさんの自由な個性を産み出し続ける社会として、許容性という意味で「懐の深さ」を現出してみせた。

「社会を形作る契約者相互は、ちょうど等しい点の集合なのだ」というような抽象として、人々を単位のようなものとして描きだし、それを社会成立の根拠とした。
「その限りでお互い様」というこの社会に、王や神が入り込む隙間はない(はずだ)。
なぜかというと、「五つの形状」のように、それが抽象化による究極のイメージであると言えるからだ。
「法は最低の道徳だ」という法諺(ほうげん)が、近代社会にはよく似合うと思うのだが、「最低の道徳=法」さえ守れば、お互いに自由なのだ、という話になった。
そこには、アーティストや、高潔な学者もいれば、平凡な市民のみならず、利己主義者も、守銭奴もいて、しかも、どうにか社会としては成り立っている。
この「自由で理想的な社会のイメージ」に、絵(イメージ)として、取りあえず不都合は見られない。
この許容性や一定の自由ということは、「抽象(化)」の道程が必然的にゆきつく結果なのだ。
社会が遍くここまで押し上げられたのは、いわば「論理的必然性」なのであった。

近代が相手をしたのは、実は自然である。
自然には自然の因果関係法則があり、従って「自然の論理的必然性」なのであったということができる。

「近代絵画」の画家たちは、自分が感じ、考えるままに、風景や静物をどう作り変えてもよいという態度で、キャンバスの前に立って「どう描こうか」と考え、「近代市民」は、一定のルールのもとにおいては自由だ、という世界の前に立って「どう生きようか」と考え始めたのだった。

このようにして作り上げられた、壮大なる一面の秩序によって、それ以来、人々は同時に近代の嵐にさらされた、ということができる。
個人としての歌を歌い続けることが、現在まで、やはり窮屈なのだとすれば、近代の到達点の(自然的)秩序の裏側、そこに隠された他の一面が問題なのだ。
それは近代の自然に対して非自然というべき世界である。

近代においては「平等」と「等価」が導かれた。
「同じ」という概念への希求がその基礎にあったからであろう。
その「同じ」から出発すれば、根本的な場所に手が届くのだ、と期待していたのだ。

政治的には、「市民と市民」「国民と国民」という世界の内部では、「同じ」であり「平等」なのだ。
経済的にも、「等価交換」という世界内部では、「同じ」であり、「等価」即ち「平等」なのだ。
この二つは、近代社会以降の人々の思想感性を、深く広く冒している。
そもそも、歌を歌い絵を描く「個性」とは、「一つとして、一人として同じではない」という意味なのだから、この「同じ」社会の内部(=近代社会)から、「個性」は疎外される他はないものだ。
さらに、歌や絵の命である「個性の表出」というものは、「同じ」と「平等・等価」とがつくる秩序(=近代社会の秩序)の恩恵を反面こうむっている。
このことが、事態が簡単には理解しづらいものになっている、と同時に、善処しづらいものにもなっている。

それゆえに、近代は、
①観念的な頭の中での作業である結果、 ②個性を他の多数と「同じ」ものにしてしまった(不可能を可能にしてしまった)、という二つの意味で幻想の世界である、と言わなければならない。
③さらに、この基礎には、人間の世界が自然から非自然の世界へ移行してきたという、現代へいたる事情が存在している。

現代・・・、作家達になし得ることは何であろうか。
森田さんの多くの作品からは、くめども尽きぬように内奥から歌が湧き出している。
その湧きだすということ、無から有が生まれるということ、それが現代への扉を保証したのだ。
自然は基礎的なものであり、変化を続けはするのだが、自然が絵画作品を「湧出させる主体」ではあり得ない。
歌を唄い、絵を描く世界は、自然から外側へ出てしまった。
既にあった世界の変化ではなく、新たな世界の湧出として、キャンバスの内部において出現している世界である。
明るさの壁に隣接した翳りが、画面の全体を背後でささえている。
そのわずかな光の差異、それは個の心の底の、湧出の場所を示してまぶしい。


■森田義男 近作展
2007年10月21日(日)~30日(火)


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