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伊藤和夫さんの絵
(2)








伊藤和夫さんの絵ー(2) ~ 宗教と芸術 ~   
文 ことのは 宇田川 靖二


●伊藤和夫さんの作品に「落日」という小さな絵がある。
2012年5月にギャラリー「ことのは」(八王子)にて、「風景画展」があった時のものだ。

絵は、暗緑色のかたまり=「鎮守の杜」と、その背後から、夕日が広がってくるという、それ自体は単純な景色なのだが、じっと見ていると、飽きることがない。

この昏い翳をつつむように広がってくる朱色(あけいろ)の表情が、私の「体内」から滲みあがってくるように、情感の襞を呼び起こしてくる。

あるいは、朱色は、まさに私の身体の「外側」の、その彼方から、地上に降りてくるもののように感じられる。
それは自然の体温に浸透するように語りかけている。
かの僧侶であれば、自然に合掌するであろうか。

横浜から来たファンの一人が、じっと見詰めているので、私は、その人の耳元に囁いた。
「この絵いいでしょう・・・」
結局、今、絵はその人の手元にある。

●私達の身体は一個の「個体」である。
そこに居るのは「一人」の人である。
この意味で、その「個体」が出現した初源にまで遡れば、私達は「生命の誕生」という世界にゆきつく。

「生命の誕生」、それは何事が起きたのであろうか。
その時、一個の生命は一個であるが故に、「内側」と「外側」の世界を生み出した。 

同時に、彼は、「内側」と「外側」の世界に投げ出されたのだ、と言い得る。

だから、忘れてはならない。
私達が、自分の身体の「内側からの声」を聴くのと、「外側からの声」を聴くのとは、世界において、同じことなのであり、声の正体は、そもそも同じものなのである。

●「・・・・・「草食動物」は、ある時、猛獣に追われた仲間を見て、果敢に猛獣に挑んでゆく、そういう例外で印象的な、決定的行動を生み出した。・・・・・」 
( → 「伊藤和夫さんの絵(1)~詩とは何か~」 )

「草食動物」の、この行動の瞬時の不思議とは、ある声、「仲間を助けよ」というその声に対して思わず呼応した、そういう瞬時の不思議なのだ。

では、「草食動物」はその瞬時、自己の「側からの声」を聴いたのであろうか?
それとも、自己の「側からの声」(=命令)を聴いたのであろうか?

ここで、思い出さなければならない。
私達が、自分の身体の「内側からの声」を聴くのと、「外側からの声」を聴くのとは、世界において、同じことなのであり、その声の正体は、そもそも同じものなのである。
同じ存在が、「内側」と「外側」という異なった顕れを示すのである。

●ある女流文学者の話であった。
「私達が、本当に正直になれるのは、神の前でしかないと思うのです。・・・」

自分の世界を振り返る余裕をもった時、この感覚は、私達にはよくわかる気がする。

勿論、神は私達の「」に居る存在として、私達の前に、そのように顕幻(現)する。

そして、もう一人、ある彫刻家の話であった。
「人々が、どうやら私の作品を褒めてくれたのだが、それから、褒めてもらった作品のようにやってみよう、とつい姑息なことを考えてしまいがちになる。そして、作品にそれがあらわれてしまうのだが、そこが自分でも嫌でねえ。そんなことを考えずに作りたいと思うんですよ。」
 
勿論、この彫刻家の、「正直であろう」という声は彼の「側」の声だ。

そして、前者の「外側に顕れる声」と、後者の「内側に顕れる声」とは、もともと同じ存在の顕現だと考えるべきだ。

●美術史は、しばしば次のような印象をもたらす。

宗教的なものから絵(芸術)が生まれた、しかも、宗教的なものから絵(芸術)は自立しようとしてきたのだ・・・。

ここで、私達は、そもそも、「内」と「外」とが、世界において同一の存在だ、ということを思い起こすことになろう。
「神仏」と「絵」とは、この「内外」という構造のうちにあり、同じ一つのものの異なる顕現という現象を呈する、と考えてよいからである。
各々は「内側の声」と、「外側の声」という二様を繰り広げる。

そして、この「神仏」と「絵」(=芸術)とは、深く、顕現の仕方において、対局にあるような出現傾向をとる。
「神仏」は「外から」命ずる全能者として、(自己や共同体の「外から」、「普遍者」の面影を燻らせて、)「絵」(=芸術)は自己の「内省」において、その姿を現すのである。
平たく、且つ極端にいえば、「神仏」は「外から」出現し、「絵(=芸術)」は「内から」出現する。
        
●さらに、注意しなければならない。         
同一の、一個の存在が、「内側と外側」という二者に各々姿を変えて顕れる、というのは、私達(生命)が、「幻想」を介してのみ、その声を聴くことができる、ということを意味する。
不可能を可能に超越描写してしまう場所としての幻想は、いずれ超えられなければならない片面を含んでいる。

こうして幻想の中にある他はないものが、当の幻想をはらうべく彫刻する(絵を描く)。
内側と外側の幻想構造を自覚化する場所から言えば、それは、宗教からの自立という歴史の行路に立っている、と表現してもよいのだろう。

この絵の朱色は、作家達の宿命の色でもある。

* ここで扱った、謂わば「幻想(性)」は三種類。
 「①宗教、 ②芸術、 ③宗教と芸術の関係」、の三つである。
  ①はがんばっている坊さん達、 ②はアーティスト達、 ③は考える人々についての話である。

伊藤和夫さんの絵 (1) ~ 詩とは何か ~

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