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「抱懐」





茶碗A 宇田川靖二
  
驟雨 宇田川靖二

「抱懐」
文 ことのは 宇田川 靖二

あらゆる「言葉」の海のなかから、一語を釣り上げてみる。

私は「抱懐」という言葉を選んだ。

「物質」や「物理」という言葉は選ばなかった。
なぜかというと、人が死滅した後も、「物質」や「物理」は、厳然として不動の世界だといえるからだ。
もっと、人間に固有の言葉といえるものを選んでみた、というわけだ。
人間の世界にだけ妥当性があり、人間が滅んでしまえば無効でしかない、そんな「人間の宿命」という意味合いを孕んだ言葉が鍵だと思えたのだ。

「抱懐」とは、私達の「欲望」(動機)の一類型を意味している、そう思ってこれを選んだ。
「愛」とか、その種の言葉は、退けた。
「愛」などの言葉が「通俗性」を持っているというような理由からではなく、それらが「観念性や抽象性の度合いが高くなりすぎた言葉だ」という理由から、これらの言葉を退けたのだ。 

「欲望」を基礎に据えて人間について語るというのは、古典的な宗教がよく取り入れている。
例えば、仏教は「煩悩」という「欲望(類型)」をイメージしたようだ。
しかし、科学の数世紀をすでに体験した私達には、どこか補足(翻訳)が必要な言葉だという気がする。

生まれたばかりの我が身を想像しても、「母親」達を眼の前にしても、「抱懐」という言葉を選ぶのが最も妥当だと私には思えた。

電車に乗り合わせた母子をみれば、「抱かれたい」と「抱きたい」とは、同じ世界だといってよい、とつくづく思う。
いわゆる「受動と能動」の違いに過ぎないであろう、からである。
そして、この「抱懐」は、様々な別様の言葉に言い換えられている。

こどもは母親に「かじりついている」。
母親が、子供に・・・「甘えている」。
その社会は、快く「迎え容れ」てくれるだろうか?
「仲間がいなければ生きていても仕方が無いから、死のうと思った」・・・。
ピアノの音色は、「訴える」ように聴こえる。

「抱懐」を意味していると考えられる、これらの、言い表し方は、二つの問を照らし出している。
私達は、誕生以来、『誰に』、抱懐されることを望んで来たのであろうか?
また、『どのように』、抱懐されようとして来たのであろうか?
という二つの問である。

『誰に』抱懐されるのか、『どのように』抱懐されるのか、その答になるものは、いづれも多様なイメージの嵐を髣髴とさせるようなものなのだが、少なくとも、『誰に抱懐され』『どのように抱懐されるのか』という問の相互は、「表裏」のように「切り離しができない関係」にあるということは言えよう。

人は、『誰に』抱懐されたいのか?
「抱かれたい」と願う相手の姿は、いわば「対話者」は、勿論母親ばかりに留まらない。
「恋人」や「家族」、「友人」、は当然ながら、「社会」にも抱かれたいと人は願っている。

この「もの言い」ではまだまだ足りないものがあろう。
人は、『誰に』抱懐されたいのか?
私の家族に、私の恋人に、私の友人に、私の社会に・・・、と言うべきであろう。

私の、その社会は、快く迎え容れてくれるだろうか?
私の、仲間がいなければ生きていても仕方が無いから、死のうと思った・・・。

そう願っているのだとすれば、私は「日本語」を媒介にして、「私は日本社会に抱懐されたい」と、日本語に接した時から願っている、と言えるはずだ・・・。
と言い切ってよいか?
私の「日本語」を媒介にして、「私は、私のイメージした、日本社会に抱懐されたい」と願っている、・・・とでも言い直すべきだろうか?
ここに、私の「抱懐願望」が、「私だけ」の「居心地」に基づいている、と思われてくる。
しかし、既成社会を思うにつけ、「或る居心地の悪さ」というものをも、この「私」は実感している。
私達が望み描く社会と、実際に感じられる社会とは、イメージがぴったり重なることはむしろ稀だ。

私は、先ず、私の対話者に、「抱懐」を求めている。
だから、実際に、私が対面している対話者よりも、「はるか遠方に、かすかに予感される対話者」との「抱懐」を、私達は、期待のうちに感じつつ日々を過ごしているというべきなのだろうか?
結局、人は一体『誰(達)に』すでに抱懐されていて、そして、『誰に』将来抱懐されたいのか?
話は「私の居心地」が描き出している「私の日本社会・・・」ということなのだろうか?
ここまでやって来ると、「私は、私自身に抱懐されるのを期待している」との言い換えすら成り立ちそうだ。

そして、人は『どのように』抱懐されたいのか?
その際、交わされている「日本語」とは、「私の認識と表現」という意味を持っている。
抱懐されたいと願っているのは、具体的には時々刻々の「私」だからである。
抱懐の現場は、個々の「私」の願望であるはずだ。
そこでは、日本語の中で、「私固有の日本語」が、要求されている。
それなら、以下のように言うことができよう。

「認識も表現も、抱かれるための、その入り口をなす扉」のようなものなのだ。
そして、問題となっているのは、「認識も表現も、『私が』抱かれるための入り口をなす扉」だということなのだ。
絵や音楽や詩は、「抱懐」をめぐる世界の、扉という場所に、扉として存るのだ、ということができる。
扉はその「抱懐」界域への、入界条件を私達に強いている。

どう描き、どう演奏し、どう語ろうかと悩んだあげく、作品をイメージし得た時、その時点を境に、「抱懐してくれる」対話者が、或る界域となって、同時に産み出される。
それは、私達が既成の界域に「別れを告げた」のだ。
そして、「私の、絵が、新たな界域を、扉となって出現させた」のだ。

だから、芸術には、「抱懐」を求める孤独の興奮がついてまわるのだ。 
初めて産み出すものに、初めて産み出される対話者という界域が、その作家を抱懐しようと、「出迎えることを始めた」のだから。

そのようにして、作品の理解者という存在が、「抱懐」をめぐる次のドラマの主役となるのだろう。

ピアノの音色は、ちょうど「訴える」ように弾かれている。
そして、体内に「居心地良く」受け入れられるように、「聴き容れ」られる。

一人の作家は『誰に』抱懐されようとしたのか?
「抱懐」の相手は、現在という時点での対話者であるとは限らないし、現在捉えられるイメージに限定することもできない。
その相手は、各々の「私」が産み出していて、しかも、あまりの多数者であると考える他はない・・・こともない・・・。

→ 歌川(かせん)の陶 ~現代美術について~


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