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山口貞次さんの絵





山口貞次

山口貞次さんの絵
文 ことのは 宇田川 靖二


画家・山口貞次さんが、昔(35年ほど前)、或る時、「見つめ続け ていれば、そのうち必ず見えて来るものがある」と語ったのを、思い出す。
制作中に悩みの中に入り込んでしまい、筆が進まなくなってしまった、というような時についての話であったと思う。
要するに、作家達を襲うことがある、「かけない・・・」という事態 が起きた時、一体どうしたらよいのか?について、その時話していたのだったと思う。

山口さんが描いて来たものに、くだもののレモンやハンバーガーなどを選んで、その一部が液体化している状態の絵があった。彼はいつの頃からか、そういう「固形物が、液体として流れ出した」 絵を描き始めた。その絵の印象も強く残っているが、当時から、私には、そのイメージをうまく言葉で意味づけられなかった。

それらは、ほとんど、迷いの見えない写実的な画風のようであった。当然、迷いとか、悩みとかはあったであろうが、それらは、キャンバスに描き込んで行く前の、イメージが出現するかどうかの段階においての迷いや悩みという、そういう比重の方が高かったであろうと思われる。

描く対象は、ふだん人が普通に眼にするレモンやハンバーガーで、特に何でも無いものを好んで来たようだが、ここでは、そういうことではなく、彼の、この「見つめ続ける時間」というものを考えてみたい。

きちんとした形を持っている対象(レモン)が、水や霧のようにその 形が崩れ去っていくという経験を、私達が自分の中に探すとすれば、それは具体的にどんな場合であろうか?

同時に、それは「水や霧」が、やがて「形を作る」というプロセスの逆になることを意味する。
こちらの、言わば通常のケースは、北斎が、動きたゆまぬ大波を静止画像に描いてみせた「神奈川沖浪裏の富士」の絵などがそれだ。
それは、万人に、波の形が「見えた!」と納得させるものだ。
「細部にわたって世界がとまった!」という表現が似合う。
だが、北斎に、その描かれた大波が、「再び無形の海水に崩れ去る絵」、「その静止した大波の一部分が、もう液体のように崩れ出している・・ ・」というような絵は、当然ながら存在しない。

先ず、これらは観念の世界での出来事だという前提があるから、自然科学の世界に跳んで考えてみてもはじまらない。
こういう時間を比喩的に語れば次のようなイメージになるだろう。 電車が他の電車に追いついて並んだ。その時電車の静止画像が得られる。
また、反対に、相手の電車を、こちらの電車が、すれ違うほどに猛烈 なスピードで追い越す時、水のように流れ去る映像の通過を体験する。 そもそも、日頃、私達が視覚の世界で体験するような時間の話は、比 喩すればこのような現象(イメージ画像の形成と崩壊)といってもいいだろう。

このイメージの、「形成」と「崩壊」は、基本的なところで、「対象世界をとらえたい」という私達の欲望に根ざしている。 私達は、世界のイメージ画像を「形成しつつとらえるのか」あるいは 「崩壊させつつとらえるのか」それとも、第三の方法、「形成しつつ、 同時に崩壊させつつとらえるのか」というそのいづれかのスタイルを、 常日頃とろうとしている。

画家は視覚で世界を把握しようと考える。それは、おうおうにして静止した画像を作る作業であって、イメージ「形成」のプロセスにかかわる。
そして、ミュージシャンはそのイメージ画像を「崩壊」させつつ、それに沿って流れてゆこうとする。音楽に、形ある画像は不要なのだ。

ここで、形が崩壊してゆく時間に注目すれば、恐らく、山口さんの例のレモン画のイメージの意味がはっきりして来るだろう。

私達の意識は、電車のように走っている。
だから、レモンが固形物のように見える時、私達は相手の電車に並行する。
だが、(レモンを)じっと見つめるという時間に入っていくと、少しづつ、あるいは、或る瞬間一挙に相手の電車から「ずれはじめる」。(電車を)追い越すか、追い越される。この時、画像の「形」が崩れ始めるのだ。やがて音(楽)が聞えて来るように。

ここから、第三の「形成しつつ、崩壊させつつ・・・」という世界把握の方法へは、或る意味であと一歩であろう。
即ち、主語(形成)と述語(崩壊)を産み出せば、文としての把握が可能になる。
この言い方に従えば、「絵は主語的」であり、「音楽は述語的」なのだ。
勿論、私達は、常に「形成」と「崩壊」の、双方の最中に呼吸している。
ただ、どう意識されるのかということ、自己意識が今どちらに振れるのか、という現象の違いにすぎない。

山口さんの絵の世界から、私達は、認識のメカニズムに入り込んでしまった作家が、その視線を忠実に語ろうとしている、そのことに思いを馳せればよいのか?

*彼が、キャンバスに向かっているその時、その時間というものは、 決してアクション・ペインティングのような音楽的時間(「崩壊させている時間」)というのではなく、むしろ「崩壊のイメージ」である液体化というできあがったイメー ジ画像を、改めて「形成する意識」でキャンバスに描いている、そういう時間だということになろう。

あるいは、彼の絵から世界把握について、歴史的規模のエネルギーを 実感すればよいのだろうか?



山口貞次(画家・故人)
1935年 長崎市生まれ。東京学芸大学美術科卒業
1956年~72年 新制作展出品(14回)
1971年~03年 櫟画廊にて個展21回
1973年 モダンアート展出品 協会賞以後毎年出品(受賞3回)
1977年 国際青年美術家展 日本文化フォーラム賞
1980年 シェル美術賞展 3等賞
ほか日本選抜美術展、明日への具象展、日仏展、現代日本美術展等へ出品
グループ展多数 
モダンアート協会会員

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