「現代詩手帖」1985年11月号の表紙がある。
そこに、宋 左近の詩「夕焼け」がのっている。
日付から考えると、私が30代の終りだった頃の発行になる。
恐らく、自筆原稿を写真に撮り、それが表紙のデザインとして使用されたのであろう。
つぎのような詩である。
*****
夕焼け 宋 左 近
遠ざかるほかはないから燃えあがるのか 苦しみよ
歌わないことによってしか飛べない鳥の翼
抱きしめられないままだからわななくのか 赤さよ
裂けることによってしか光れない雲の唇
*****
この詩はその後も時々私の念頭に浮かんできた。
発行の1985年11月から、すでに30年ほどが過ぎ去った。
しかし、いまだにこの詩が、何かの「論理性」や「法則性」を掬いとっているのではないか、という気がして仕方がない。
例えば、「自然」と「精神や観念」とがどのような関係にあるのか?
あい変わらず私には問題である。
だから、この詩に出てくる語を別の語に、何か所か入れ替えてみることもできるであろう。
そう考えた結果、詩と言えるのかどうか、以下のようになった。
*****
「自然」に依拠するほかはないから燃えあがるのか 「観念」よ
「自然」の外に出てしか「自然」を動かせない「観念」の翼
「自然」を抱きしめられないままだからわななくのか 「観念」よ
消滅(死)によってしか「自然」の不滅に別れを告げられない「観念」の唇
*****
「自然」を「物質・物理」に、
また「観念」を「精神」「こころ」等に入れ替えてもよいであろう。
あるいは、「自然」を「本体」に、
「観念」を「影」に入れ替えてもよい。
さらに、一歩をおしすすめて、
「自然」を「実体」に、
「観念」を「関係」に入れ替えてもよい。