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野上邦彦さんの絵





黒い波 (194x259cm)

野上邦彦さんの絵を観て ~ 意志について ~
文 ことのは 宇田川 靖二

第64回立軌展(2012)で、野上邦彦さんの絵を観た。

○ 色彩がおさえられている。

ほどんどモノクロの印象をうける。
それは、感情に流れるのを押しとどめようとする作画の態度の現れであろうか。
年寄り夫婦、その息子夫婦、さらに二人の子ども(息子と娘)が描かれているようだ。
あるじは真中に位置していて、彼は作家本人と何かが重ねられている気配がある。
脇に犬がいる。
その家族の意識の方向は、みな空に向かっている。
息子夫婦とその娘は、じっとその眼を上空に定めている。
だが、実は眼で空を見ているのではない。
老母が、左方を向いて動かぬように、この家族は眼の奥の、どこか、意志の集約点で、運命を捉えようとし、且つ意志を固めている。

未曾有の津波の大被害によるイメージなのかも知れない。
こう考えることもできる。
空爆下の町の、家族の様子なのかも知れない。
また、この家族の隣に、別な家族が描かれてはおらず、周りはただ茫漠としていることを考えると、各々が寸断された資本主義の過酷な有様なのかも知れない。

意志は眼の奥にある。
私は眼をつむってみた。
それでも彼らの世界は私に十分伝わる気がした。
画面の家族は、孤独なひとかたまりでもあるのだが、何者か他者の存在との間で、そして、何事かを通わせてもいる。
その表情の意味するものは、国家という厄介な存在まで、続いてもいるのだろうか。

意志は苦悩する。
意志は苦悩を共有する。
では、意志は何者だろうか?

○ その、眼や耳や皮膚の奥にある、「自己の意志の在処」、それはどのように産まれ、どのようなあり方をしているものなのだろうか?

それらの意志を、直接目に見たり、手で触れたりすることができない(非実体である)にもかかわらず、この絵に現れた意志が私や他の人々に伝わるということは、鑑賞者である受け手に同様の、認識の構えがあるはずであろう。
実体ではないものを知ろうとする時、非実体を認識するのだ、ということが、私達のどこかで意識されているのだ。

では非実体にはどんなものがあるだろうか?
「関係」という答はどうであろう?

例えば、絵の中の家族だが、それぞれは具体的な成人男子であり、女子である。
また男の子、女の子である。
これらの人々の「関係」は、家族として現れている。
あるいは、一般的に、H2Oは水を意味する。
「水素原子 H」と「酸素原子 O」との「関係」が水としてそこに存在する。

いずれも、「実体間」のことは「関係」として捉えられる。
「実体」とは、これらの場合、成人男子女子と男の子女の子、また水素原子 Hと酸素原子 Oということになる。
だが、この「関係」とは、ただ頭のなかで、観念的にイメージされているものに過ぎないのだろうか?
それとも、「関係」は「実在」するものだろうか?

例えば、交通渋滞というものがある。
渋滞を構成している実体は自動車の群れである。
渋滞とはこの自動車と自動車の間隔が狭まった現象をいっている。
渋滞そのものは実体ではない。
自動車相互が作っている関係が渋滞なのだ、というべきである。
実体の方は自動車の方であるが、そこには、自動車という実体だけがある、というわけでもないし、渋滞を実体と考えるわけにもいかない、という事情がある。
しかし、渋滞は、頭の中のイメージの、その外に存在する。 

川崎市と大田区が存在すれば、すでにこの「関係」は存在する。
それは、「関係概念」で理解しなければならないものである。
その川崎市と大田区との間に多摩川大橋というのがある。
これは、その関係が、「実体化」した一例である。
多摩川大橋そのものが、「関係」なのではない。

○ ここで、「関係」が「実在」するとしたら、受け手の側は、以下のような、ある構えを意識しなければならないことになる。

①「関係は実体ではない」。
故に「実体概念」では捉えられない。
「関係」は関係概念で捉えなければならない。
②そういう「関係という存在(実在)」がある、
という構えの意識である。

この構えというのは、私達にはあまり慣れたものではない。
普通、「存在」とか「実在」とか、それらの言葉を聞いた時、「もの」や「物質」のような「実体」だけをイメージして、「関係」(非実体)のことは思い浮かべないからである。
非実体である「関係」を明確に独立した存在としてとりだすことには、私達は慣れていない。

○ さらに、「意志の正体はこの関係という存在である」と考えてみる。
こう結論した時、「意志」と「関係」の現象としての共通項を様々指摘することができる。

「意志」と「関係」とは、どちらも、非実体である。
どちらも、実体世界を土台として持っている。
(「意志」は身体という実体を、「関係」もまた取結ぶ実体相互を持っている。)
どちらも、実体に依拠しており、実体が無くなれば無にかえる。
(「意志」はその肉体が無くなれば同時に死ぬ、「関係」は関係構成者である実体が無くなれば同時に消える。)
しかし、どちらも、実体から切り離して、独立した存在だ、と仮定して扱うことはできる。
(「意志」だけで、独立した世界を考えることができる。また「関係」だけ独立して問題にできる。しかし、それは仮の話になる。)

超えなければならないハードル(課題)も出てくる。
「関係」はどのように主体たりえているのか?
「関係」と「実体」はどのように「一つ」に統一されているのか?

だが、人が万物の根本が物質であると考えはじめた時のように、意志や精神や心を説明する時、精霊や神や・・・のことばを拒否してみると、やがて「関係」という言葉が浮上してくるのは、必然のように思われる。

個体のうちのどこか、確かに苦悩する意志はある。
家族にも、国家にも、意志はある。
これらは、組織(体)という世界で、「諸関係」を取り結ぶことによって、生成されてくる。
しかも非実体としてである。
そして、痛みや苦悩を引き受けるのはその土台である実体の方である。。


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