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作家 八木厚紀





八木厚紀

「八木厚紀さんの絵」
文 ことのは 宇田川 靖二

「ひとり」ということがいつから私達に訪れるのだろうか?
そして、少女のほんの一瞬の表情のうちに、それを読み取り得るのはなぜだろうか?

言葉で語ろうとする以上に、その少女の世界は、
観る者の思考や感性が働くのを、閃きのように促す。

私がこの絵に興味を覚えたのは、
この表情に、どこか、見覚えがあるような気がしたからなのかもしれない。
誰もが経験した出会いの光景であるとか、
人々の生活がある所には、どの街角や公園などにも見られるとか、
そういうことであるのかもしれない。

作家は何を探しに出かけたのだろうか?

絵の中の少女はアジアのある小さな村の片隅の日ざしの中にいるようだ。
その境遇のおおよそも、何となく想い描くことができそうである。

何事があったのであろうか。
そうではなくて、何事が無かったのであろうか。
この時、問題は何なのだろうか。 
 
ある年齢のころから、予感が始まり、
いつしか世界が「受け入れるように」と囁いてくる、そんな諦念との相克なのであろうか。

「世界の中にぽつんと居る」・・・。
少女は眼でそれを語るだけではない。
その肩でも、髪の毛の数本でも語っている。 
描かれた表情というものは、姿の全体からとめどなく不思議さの香を燻らせている。
背後の広大な世界との繋がりが滲んできているからであろう。

この少女の表情は、私達の内部に滅びることはない。
だから地球の裏側のどの街角までも、このイメージは瞬時に運ばれてゆくことだろう。
身近な思いで理解し得る人々はどこにでもいるはずだ、と思うことができる。
 
理解ということは、不可能なほど遠い話になってしまうのだが、
この不可能を可能にするということを、
世界や歴史が、この小さな一個の身体と表情を通して、人々に要求しているのかもしれない。


この絵に近づくと、それは鉛筆の縦線の集合で描かれている。
その鉛筆の縦線が作る濃淡に、繊細な眩しさが溶け出している。
その眩しさが、小さな身体の内側から現れる情感を汲み取っているのか、
あるいは、情感の方が光の眩しさに馴染んでいるのか、
「光は・・・」なのか。
「少女は・・・」なのか。
主語が、彷徨っている。


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