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作家
 ヒロコ ヒルトル






ヒロコ ヒルトル

「色彩について」
文 ことのは 宇田川 靖二

1、
ヒルトルさんの絵は、色彩が温暖な体温となって、つまりは調和へとやって来ている。
仮に、その色彩に、別な要素が入り込もうとしていても、結局その画面から、温暖な色彩の世界が失われることはない。
私は、今、川に沿った遊歩道を、その対岸の風景を眺めながら、歩いている。
あるいは「陽射し」に違いないその絵の、暖かさの舞台をそんなふうに想い浮かべているのだ。

もしも世の中に、「メロディー」が無かったら、「どんなに淋しいことだろう」。
もしも世の中に、「色彩」が無かったら、「どんなに淋しいことだろう」。

この二つの、「淋しい」という言葉の意味合いは、どこか似ている。

はらはらと木の葉が舞い落ちる。あたかも、次々に「訪れて来たもの達のように」降りてくる。私達の心への訪問者はそれぞれ一個の「自己主張」という世界を持って現れる。
だから、恐らく、私達は、降りそそいで来るその世界の「多様性」に心を奪われてしまう、それが色彩の世界だと感じている。
それぞれの、葉の個性、その多様さの嵐に追いついていけるかどうか、その限界付近で私達の意識はかく乱される。
そのようにして、色彩の嵐の場所へと、私達は連れ去られようとする。

2、
小さな風の音と、葉の揺れと、それらが、平和に戯れている。
耳から聞こえる微かな音と、眼に見える小さな光景、とが、そこでは調和している。
それは自然のゆえだ、と当然のように思われている。

だが、何かが見過ごされているような気がするのだ。
不思議なことだ。
なぜ、「風の音」と「葉の揺れる様子」との間に、違和感の生じる余地がないのだろうか?
この、「耳」と「眼」とはそれほど、ぴったりと一つのものであるのだろうか?
「この風の音と、この、葉の揺れ方は馴染まない・・・」と、私達が思う時があってもよさそうだとは、なぜ考える事がないのだろうか?

自然の中の「空」は当然ながら青い。
自然の「空」の「青さ」に、違和感の生じる隙間はない。
だが、画家達が、自然の色に自然さを感じながらも、「空」を「青く」塗らなくなって久しいであろう。
かくして、「空」という空間と「青」との関係には、「歴史」が感じられる。

絵の世界が、まだ生まれたばかりのような過去の或る時期なら、色彩もまた他の黒白や線や面、あるいは形、あるいは音など、そういうものと一体不可分なものであったのだろう。

私が子供の頃、初めて若山牧水の有名な短歌を聞いた時の印象が好例であるかも知れない。
「幾山河 越え去りゆかば 寂しさの 果てなむ国ぞ 今日も旅行く」
その時、私が抱いた「夕暮れの風景の色合い」と「五・七・五・七・七」のリズムやメロディー、そしてその「言葉」。
これらは、私には、今もって「一体不可分のもの」で、「絵」や「音楽」や「言葉」の世界、それぞれに、私には分離することができない。
その「絵」や「音楽」や・・・の世界達は、その後、私の成長に合わせて、それぞれ「分離」を果たして来た、そういう経過をたどったように思われる。

だから、年月を経てしまったからには、どうやってうまく「空」と「青」との調和の場所を探したらよいのか、そんなことが、画家をはじめ、表現する人々の課題になっているのだろう。
彼らは、きっと過去の、或る一体だった時期にもう一度戻りたいのだろうと思う。
その、一体だった時期に戻れなければ、恐らく、「違和感」から「調和の場所」に転じることができないのだ。
「空」や「青」に対しての、心の自由の幅も広がるのだが、失ったものも多いからだ。

3、
ヒルトルさんの色彩の温暖さは、何処から来るのか、こういう想像ができなくもない。
何かが身体の内側でドラマを演じている、そうした内部の熱の余韻が現れているのかもしれない。あるいは、エンジンが過熱したりしているような違和と調和のせめぎあう現象の浮上といったものなのかもしれない。

或る舞踏家の舞台を観た時のことだ。
小さな薄暗い空間の中で、ゆっくりとした動作がしばらく続いた時、彼がスタッフに向かって「音は中止だ!」と、熱っぽく叫んだ。
「音」と「動き」が、彼の身体の内側で、違和と調和を繰り返し、ついにその場ではその二つを和ませることに破綻したようだったが、その舞台は、彼の身体内で過熱の現象が起きていたということなのだろう。
キャンバスに向かっている時の、身体内部のそういう「せめぎ合い」のドラマが発するものが、香のように浮き上がってくるもの、それがヒルトルさんの温暖な熱の源であるのかも知れない。


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